学校教育で断捨離を進めるべき3つのコト

こんにちは。DAWNAです。
本日は少し真面目な投稿です。
※以下、文体が変わります。ご了承ください。
こんな人に読んでほしい。
- これから学校の教員を目指そうとしている人
- 学校現場にいるが私と同じように違和感を感じている人
- お子さんをどんな学校に入れたいか迷っている人
学校教育は変わらないといけない。いや、変わるべきだ。
そう考え始めたのは教員生活3年目。教員として大体の仕事内容も分かってくるようになったときだった。
この生活をあと30年40年続けるのか。突然そう思った。自分でもよくわからないけど、なんとなくそう思ってしまった。
職員会議では「例年通り」の言葉が飛び交い、何か新しいことを始めようとすると「みんなの意見を聞いてから」「段階的に進めていかないといけない」と言われる。例年通りの学校行事、カリキュラムにただ乗っかるだけの毎日に何の価値があるのか、何が面白いのかわからなくなった。
今、学校登校している生徒への指導もこのままでいいいのか?とも思った。現在、多くの学校は出る杭を打つ場所になっている。人と一緒であることを正義とし、少しでも外れた者は無理矢理にでも元に戻そうとする。人と違っていて何が悪い?むしろ人と違うことこそが本当に価値があることなんじゃないかと思うのに、学校現場ではそれが許されない。
生徒に、冗談でこんなことを言っている。
「私は世の中でいう美人には興味がない。なぜならそれが1番平凡な顔だからだ。」
と。多くの人にとっての美人は、その人たちが今までに見てきた人間の顔の平均値に過ぎない。みんなの平均値で何が面白い。むしろ平均値から外れた人間の方が実は1番魅力的なのだと信じている。
世の中が急激に変わりつつあるこの現代で、1番変わらなければならない学校教育現場が1番変わっていないことにすごく違和感を感じている。
今回は、学校教育で断捨離を進めるべきコトを挙げてみたい。
断捨離を進めるべき3つのコト
1.従来の講義型授業
子どもたちは教員なしでも自ら学べるようになった。
これはインターネットの発達にともなって、スマホやタブレットがデジタル機器が広く普及したことに原因があると考えている。
自分の知りたいことを自分の知りたいタイミングで調べられるようになった。大人の力を借りることなく、自分で自分の課題を解決可能になったのだ。これまでの直接、授業を受けに行く講義型授業の重要性は低くなり、オンラインで講義を受けるといったスタイルが普及し始めている。
スタディサプリを代表するように、インターネットを通じて好きなタイミングで場所を選ばずどこでも教育を受けられるスタイルは学校教育の基盤を大きく揺るがす自体だと考えている。(しかし、あまりそう感じて焦りを覚えている教員は少ない)
つまりこれまでは、小中学校で一律に教育を受ける必要があったが、これからは必ずしもその必要はないということだ。
2.「例年通り」を信条とする、考えることをやめた管理職
学校教育が変わらないことで、現在、勤めていらっしゃる教員の方々を非難するつもりは一切ない。現場の方ほど、「何か変えないと」と思っているに違いないからだ。
ではなぜ、学校教育は変わらないのか?それは多くの場合、管理職の問題だと考えている。学校の責任は、最終的に管理職が引き受ける。責任を逃れたい一心で、リスクのある改革を進めようとしない。改革を起こそうとしようものなら、ハラスメントまがいのことも許される。
管理職は、あと数年学校現場にとどまっておければ良い。20歳代や30歳代の教員の将来なんてそれほど考えていないのだ。(そうではない方もいらっしゃるでしょうが)
3.将来の視野が狭まる環境
将来何したいかわからない生徒と接することが多い。
私もその1人だった。家よりも学校が好きだった私は、学校の教員になった。別にそれを後悔しているわけではないが、今は多くの人やインターネットの情報を通じて、「人生にはこんな道もあったんだ」とはじめて実感することばかりだ。
もっと積極的に自分で動けば良かったんだ。て思われるかもしれないが、その当時の私にはその方法を教えてくれる人も情報もなかった。とりあえず、目の前のことに従順だったのだ。今さら誰かのせいにするつもりはない。ただこれから将来のある子どもたちには同じ道を歩んでほしくないと思っているだけだ。
だからこそ、今の大人たちには子どものやりたいを尊重して、それを手助けしてあげられるだけの経験や能力、そして環境の整備が必要なのだと思っている。人と違っていいんだということを大人自らが体現してあげなければならないし、学校はそのような環境を提供しなければならない。
小中学校、高校と約9年間を学校で過ごす子どもたちは、家庭と学校だけを行き来しがちだ。そのルーチンワークの部分を学校教育を含め断捨離していかなければならない。ルーチンワークを続けさせられてて、自分の将来を考えろというほうが無理難題だ。
家庭教育が一番
そもそも教育は家庭から始まる。これからの時代、家庭教育がしっかりしていれば、学校なんて必要ない。子どもの意思を尊重してそれを手助けしてあげられる環境が整っている家庭に、赤の他人の教員が関わる必要はない。
しかし、そうもいかない家庭もある。学校教育はそこをペルソナとして設定するべきだ。家庭によって、子どものやりたいことを尊重できる環境をアウトソーシングするという考えも出てくるだろう。
今はその役割を塾が担っているが、そこに学校がどのように応えるのが鍵になるのではないだろうか。
今後も残っていく学校に必要なコトって?
学校の存在を否定するつもりは一切ない。一定の品質の教育を受け、技能を習得したり、学んだりするには良い環境だと考えている。しかし、現状はコスパが悪いし、これまでの教育の正しさを引っ張り過ぎているというだけだ。
やりたくないことを無理やる必要のない時代になっているのに、
「一見無駄に見えることもきっと将来何かの役に立つ」
というのは詭弁だ。
一見無駄に見えることが将来役に立つのは、「その人自身が試行錯誤している」ときにのみ言えることだ。今、必要としていないのにただ受け身で受けている教育に価値はない。
真の教育者は生徒の心に火をつけるというが、全員の心に本当の火をつけることなんてできない。もし火をつけられたのなら、それこそ洗脳ではないだろうか?
いろんな生き方を認めよう
学校教育が必要だと考える人がいるのと同じように、学校教育が必要でないと考える人たちを認めるべきだと思う。どちらが正しいという話ではない。どっちも正しい世の中になりつつあるのだ。
“すべての教育は「洗脳」である”を書いたホリエモンは、学校教育を根本から変えるべきだと言っている。しかし、教育が必要ないとは考えていない。これまでの学校教育が必要ないと言ってだけに過ぎない。それを証明するかのように「ゼロ高等学院」を設立した。これを設立することを知ったときに、真っ先にデューイが書いた「学校と社会」という本を思い出した。シカゴで実践した実験室学校の現代版だと思った。
自分の好きなことを突き詰めて、世の中で突き抜けてから、あとから必要になったものを学ぶスタイルが認められても良い。
学校教育のスタイルが変わる前提が必要となるが、学校に通う中で、自分のスタイルを見つけても良い。
いろんな学び方が認められる世界は、ワクワクする。
学校の強みを生かした形態に変えよう
一番に思いつく学校の強みは、
「信頼がある(地方では?)」
「失敗が許される場である」
であろうか?
社会がこれだけ変わりつつある現代で、一定の知識を教授するだけの学校はその立場も変えなければならない。
学校という強みを生かして、子どもと企業、地域をマッチングさせる機関になればと考えている。子どもは常に学校を起点として、多くのコミュニティとゆるい関係性を複数持ったほうがいい。そして、企業、地域の余計な介入から子どもを守る立場として学校があったほうがうまくいくのではないだろうか。
学びたいと子どもが考えるのは、その必要性を感じたときだろう。何もまわりで不便なことがない、心躍らせることがないのに学びたいと思うはずがない。
私自身も何かを人に教えることを職業にしてから、自ら学ぶ面白さをやその必要性を感じた。その必要性を感じる場を、子どもたちに気づかれないように設定してあげられるかが学校現場に求められていることではないだろうか。
これからの教育を考えよう
私自身、現在進行形中で今から教育について方向性を模索している段階。もしかしたら、一年後は違うことを言っているかもしれない。
でも、この社会で必要なことは、わからないから動かないのではなく、わからなくても動き始めることだと思う。まずは自分の思いを発信してみて、そこから検証をさっさと始めるべきだ。
検証と修正を繰り返すだけの、フットワークの軽さがこれからの学校教育にも必要だと思うから。
もし、この考えにご意見などありましたら、コメントしていただければ嬉しいです。
では、また!
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